感情論

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
お坊さんを憎いと思うと坊さんの着ている袈裟まで憎いと思えるようになることを例えたこの言葉
色々な事象についてこれに囚われている人が多いなぁと思う

前にどこかの記事のコメ欄でも少し触れたけど
「お前が言うな」論が俺は大嫌いで
発言の正当性を論じる上では発言者の人間性は無視しなければならない
たとえその人が過去に真逆のことを言っていたとしてもだ
また、自分の好きな著名人やアーティストの言葉を妄信的に崇めてしまうような
「坊主好きなら袈裟まで好き」パターンも非常に多い

他には
特定の国が嫌いなあまりにその国の食べ物や音楽まで嫌いになる人
痴漢が憎いあまりに犯罪者だけではなく男全体を敵視する人
嫌いな人の一挙手一投足が不快に感じていじめをする人
例をあげたらキリがない

でも嫌いな人でも大抵良い所の一つや二つあるもんで
だからこそ俺は「坊主憎いけどその袈裟いいね」を常日頃心がけてる

でもこの考え方って非常にめんどくさい
困ったことに人間は感情の生き物なのだとこれまでの人生で幾度となく思い知らされてきた
こっちがどんなにそれは感情論だと諭そうが、そんな言い分は通用しない
「なんであんな奴の味方をするの」
「被害者の気持ちになって考えろ」
「逆張り野郎」
などと罵られる
世間一般からすれば俺はただの感情を欠落した異端で冷たい人間にしか見えないんだろう

感情論からくるたった一つの結論を押し付けてくる相手に対して
こっちは「それはそれ、これはこれ」で考え、「それ」への対策と「これ」への対策の二つを導かなければならず、かつ感情論ゴリ押し派を納得、あるいは妥協させる温和な問答が求められる

こんなところで殴り書きで不満を漏らしてしまうほどめんどくさく、生きづらい世の中なのだ
袈裟まで憎めたらどんなに楽だろうか

■この記事を書いた人

piggy
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7 thoughts on “感情論

  • Kamo'ne
    2018年3月24日 at 10:10
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    僕もどちらかと言えば感情論任せで考える部分があるから、
    なるほどなと考えさせられる部分もある。

    ただ僕は、「坊主憎けりゃ~」と言うよりは、
    「坊主は良いけどその袈裟どうなの?」的な考えをする事が多くて、
    その人や事柄や思想に関しては同意出来る部分を模索するけど、
    どこかでやはり粗を探している部分はあるなと思っている。

    別にそれを口に漏らしたりは殆どしないけど、
    何事にも間違いなく陰の部分は存在すると思っているから全てを受け入れる事はできないし
    心のどこかでそれに対してレッテル貼りをしているのは否めない。

    でもこれをしないと簡単に騙されたり裏切られたりってのはあるから、
    ある程度は本能的自己防衛として必要な事なんだろう。

    ぴぎの事は良い奴だと思ってる、よ。

    Reply
  • piggy
    2018年3月24日 at 10:38
    Permalink

    レッテル張りについても何度も書こうと思ったから今度書こうかなぁ

    感情論は全て悪なんて言うつもりはないんだよ
    俺にだって人並みに感情はあるしどうしてもそっち方向にバイアスかかっちゃうのは理解できる
    それに感情からくる意見も立派な判断材料の一つ
    感情が理屈を上回ってしまうほど不快であるってことだからね、それは考慮しなければならない
    だからかもさんみたいに基本的な理屈を理解したうえで感情面の話をしているのはOK
    問題はそもそもの理屈が存在しないand通用しない人が多すぎるってことかな

    自己防衛に関しては「坊主好きなら袈裟まで好き」の考え方は危ういよね
    こんなに良い人が薦めるならきっと大丈夫なんだろうってなりかねない
    「坊主は良いけどその袈裟どうなの?」ってのも凄くいい考え方だと思いました

    Reply
  • 2018年4月4日 at 01:31
    Permalink

    個人的に感情的になって物事を考えるのは好きじゃない
    自己分析すると、結構気の長い方だと思っている
    もしかしたら感情がどこか欠落しているんじゃないかと思うほど
    その弊害かもしれないけれど、怒っている人を見ると無性に苛立ってしまう
    なぜそんなことでこの人は怒っているのだろう、と

    よく嫁が俺に苛立っていることがあるが、逆にそんなことで怒るなと思うことが多々ある
    しかし、もう少し踏み込んで考えてみると、気の長い人は、その分人の怒りに気付けないのではないだろうか
    これは結構深刻な問題だ
    その人の気持ちが理解できないということは、その人の心に寄り添えないということでもある
    それは人間性に問題があると言い換えられやしないか

    人は社会の中で生きている生物であるため、人との繋がりは不可欠
    したがって、人の気持ちを理解できない(理解するのが苦手な)自分を変えなければならないと常々思っている
    そう考えると、たまには感情的に物事を考えるよう意識することも大切なのではないかと思う今日この頃です

    Reply
    • Kamo'ne
      2018年4月4日 at 23:43
      Permalink

      僕もめったな事では怒らない方だと自覚しているし、
      自画自賛になるけど怒りという感情を良くコントロール出来ていると思う。
      いつだったか会社でアンガーマネジメント講習っての受けたけど、
      そこでも講師からは感情の抑制が良く出来ていると褒められたくらいに。
      ただ実際は怒りの感情はあってもそれを表に出す事がめんどくさいってのが一番なんだよね。

      だから自分の過失で他人を怒らせた時に、
      どうして怒ってんのか理解出来ない事が多いのも自覚してる。
      まさしくきんぱちの言ってる事と同じ。

      そう考えると感情論ってのもあながち全否定できるもんじゃあないなって思うけど、
      それって感情をぶつけられる立場とぶつける立場の目線で考えたときに
      どちらかが冷静になって俯瞰的に物事を見極めないと収拾つかないんだよなあ。
      非常に難しい。

      まあだからぴぎの書いた通り「袈裟まで憎む」感情を抑えきれるかどうかだよね。
      その場の突発的な感情だけで坊主ラインを超えて袈裟ラインまで
      到達する怒りを抑制できるかどうかが人間性の現れる場面だと僕は思う。

      怒る気持ちを理解できないのは「他人の考えてる事を分かろう」としてる時点で難しい話。
      んな事が出来るのはエスパーかサイコメトラーだけなんだから無理なんだ。
      無理なら無理で「袈裟への理解」をもってして和解策を練るのが、
      感情を抑圧できる人の役目なのではないだろうか。

      Reply
  • piggy
    2018年4月5日 at 19:41
    Permalink

    きんぱちの意見は非常にいい意見だと思うし教科書に載せてもいいほどの模範的回答だと思う
    こちらからも歩み寄る必要性はあるしそれなりの努力もする
    ただこれは相手がある程度理性的でお互いに歩み寄れる場合に限るなぁ
    頑なにその場から微動だにしない人の位置まで歩いて行くのは億劫

    かもさんが言う感情の抑制ってのは大事なことだけど
    結局のところ最低限論理的に考える力がないとただの感情表現が苦手な人に過ぎないかな
    まず「袈裟に罪はあるのかないのかをはっきりさせる」ってステップを踏もうとしてる時に
    「坊主も袈裟も死ね」 感情>>>>>>>>論理
    「でも坊主はみんな袈裟を着てるし…」 感情>論理 

    「坊主は憎いけど、一度袈裟だけについて考えてみよう」 論理≧感情
    この話ができるラインまでいかないと話が通じない

    あまりにも具体例に欠けるから難しいなこれ
    これっぽい内容でなんか記事書いてくれるの待つ

    Reply
  • 2018年4月20日 at 03:27
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    袈裟を着てると坊主っぽいけど、実際坊主かどうかはわからないし、坊主も四六時中袈裟着てるわけじゃないだろうから結局はその坊主の人間性なりで○○って固有の坊主が個人的に憎いかどうかだけの問題であるから別になんかもうただの誰がキライかって話だよね。

    Reply
  • piggy
    2018年4月24日 at 22:59
    Permalink

    坊主がゲシュタルト崩壊してきた

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